会社で始めた取り組みや新しい事業、「もっとちゃんと説明してよ!」と感じている人は経営陣が思っているより多いはず。
元人事部長の僕は思います。
「日本人は説明が不足している!」
日本人の美意識も、職場であまり発揮しちゃいけないものがあります!?
スポンサーリンク
説明不足の日本人
国と個人の発信力
今回は、「社内で説明が不足してませんか?」という話です。
その前に、日本の全体を見てみましょう。
良くも悪くも、国と個人の発信力を比べると、個人の発信の方が圧倒的に多数の国民に届いていると感じませんか?
たとえばTwitterでも、個人をフォローしても国をフォローする人は少ないでしょう。
ニュースはどうでしょう?
さすがに重大なニュースはほとんどの人が目にします。
ただ、興味の湧かないことはチラッと見るだけで、深く見ることはありません。
結果、国がどういう理由で政策を打ったのか、何がどういう原理で決定がなされたのか、我々は知っていることの方が少ないでしょう。
するとどうなるか。
国の思いとは裏腹に、個人の思いの方を重く受け止めやすくなる。
たとえいい政策をやろうとしていても、誰かが文句を言ったらそっちに引っ張られやすくなるということです。
教育現場・社会・家庭~それぞれのキャリア教育
僕の専門分野である『キャリア』でも同じことは起こっていると感じます。
教育現場と社会と家庭、それぞれの場所でそれぞれのキャリア教育を解釈しているのではないでしょうか。
教育現場は文科省・自治体の教育課から通達を受け、先生は独自に授業を展開します。
現場によって違いこそあれ、“原文”ともいうべき情報は得ているでしょう。
では、社会はどうでしょうか。
ほとんどの人が学習指導要領が変わったことすら知らないのが現実です。
10年ごとに教育が変わっていることも知らされず、ジェネレーションギャップがある意味も分からないでしょう。
問題を引き起こしている現実社会が、その問題を解決しようとする動きを知らない。
子供を持つ親・世帯はどうでしょう。
子供が小学校(今年からは中学校)に通っていれば、『キャリア教育』や『生きる力』などを見たことがあるかもしれない。
しかし先生のような原文を見ることはなく、なぜそれをするのか説明を受けることは皆無です。
『キャリア教育』といっても、キャリアという言葉の認識が違う人がほとんどです。
だから「子供にキャリアなんて、まだ分からないでしょ」となるのではないでしょうか。
「プログラミング」や「外国語」などの授業としての言葉ばかりが先行し、もはや本質的に何をしようとしているのか知ることは困難です。
「ご家庭の想像にお任せします」状態です。
また教育現場に戻りますが、そういうわけで周囲は何も知らない社会。
なおで地域社会の協力を得ることができず、改革が進まずに苦しんでいます。
『知らないものはやりようがない』
説明不足が問題を起こしているひとつの例です。
会社でも同じことが起きている!
こんな環境に、あなたの会社はなっていませんか?
なっていても気づかないことが多いのが怖い所ですね。
最もよくあるのが、理念が絵に描いた餅状態になることです。
確かに社長や経営陣は、一生懸命考えて理念を考えたはずです。
しかし一般社員やアルバイトさんなど社長から遠ざかるにつれ、この理解度は下がる。
意に介さないどころか、反感さえ抱きながら働いている人もいます。
理念を作っただけで満足してしまい、浸透させるための行動を疎かにしているんですね。
行動の伴わない理念は社員から「口だけ」と評され、せっかくの思いも逆効果になってしまいます。
理念だけでなく、新しい取り組みや事業など、納得できずに動き出すこともあるでしょう。
時には従業員の納得を待っていたら遅すぎることもあります。
しかし僕が気になるのは、まだまだ説明の努力が足りていないんじゃないかということです。
スポンサーリンク
【会社の問題】風通し・コミュニケーション
『わびさび』厳禁!相手の主観に頼るなら
会社の中の風通しを良くするために、まずは曖昧な表現を排除することが大切です。
伝達は論理的に行わないといけないということですね。
直観的に理解するための取り組みや事例共有なども必要ですが、具体的な言語化は最低限必要です。
有名な京都の『わびさび』の話。
お宅に邪魔していて、「ぶぶ漬けでもどうどす?」と聞かれたら「お帰り下さい」ということです。
ここで「じゃあ一杯頂きます」なんて言ってしまったら、せっかく言葉を濁して別れの言葉を述べてくれたのに台無しということですね。
こんなことは、すでに文化が出来上がっているからできることです。
曖昧で抽象的な表現が通じるのは、その裏に大量の共通言語・共通認識ができているから。
だから文化未形成の「分かるだろ?」は超ブラックです。
説明が不足してるのに相手の主観に頼るなら、相手にすべての判断や解釈をゆだねるしかないですよね。
それなのに怒ったり評価しなかったり、いがみ合うからどんどん社内の空気は濁っていきます。
曖昧さを意味する『わびさび』は、入れ替わる社内の人間関係・流動的な人生100年時代の社会では排除すべき考えです。
個性の時代=みんな解釈は異なる
これからの『個性の時代』は、個人の特性を尊重しないと立ち行かなくなる時代です。
特性は行動だけでなく、行動の元となる“思考”にも存在します。
人の頭の中は全然違うんだということです。
それだけでなく、触覚も違うそうです。
手で物を触った感覚は指紋が振動することで脳に伝わる。
でも指紋認証があるぐらい、人間の指紋は誰一人同じ人はいない。
ということは、触覚も誰一人として同じように感じているわけではないと言えます。
熱いものを触るのが平気な人もいますよね。
脳のシナプス構造なんて言ったら、同じそれこそ人は絶対にいないでしょう。
何かの情報を得ても、脳のどこを通ってどう処理されているかは個人によって全然違うんです。
個人によって解釈は異なる。
個人の時代は個人の解釈を尊重することが求められる。
だから誰がどの回路で聞いても統一した解釈を生むため、論理的な言語化が必要です。
その次には言語化して“シンプル”になり過ぎた情報を展開する直観的体験や事例の共有も必要です。
共通言語を生み、共通認識を生む。
早期の文化形成が会社には求められているということです。
テクノロジーが発達した今、以前よりも容易になっていることは間違いありません。
共有したいなら手を尽くせ
説明が不足している時、どこかで誰かが個人最適になっているはずです。
個人最適というのは、自分の都合を優先しているということ。
たとえば、面倒だから説明しないということですね。
この不足を補うために、まずは全体最適の感性をみんなが持つことが大切です。
全体のことを考えて、「これじゃ伝わらないよな」と相手の立場になって考えることができる姿勢です。
そしてもう一歩踏み込み、以下のような説明を行うことです。
- 言語化(チャット、SNS、通信、日報、手帳、理念に表す努力)
- データ化(いつでも引き出し可能にする努力)
- 表・グラフ化(視覚的に感じ取りやすくする努力)
- 音声化(言語に熱を込める努力)
- 動画化(情報量を最大化する努力)
- 実践(百聞は一見に如かずを与える努力)
- 体験・事例共有(実生活と結びつける努力)
そんなにできるわけないだろ!と思うかもしれません。
それは一気にやろうとするからだし、全部やろうとするからです。
実際に全部取り組んでいても、特にそのせいで大変ということはありませんでした。
日々、コツコツ、少しずつの積み重ねだからです。
1年も経てば、相当な量の文化の形成ができていることでしょう。
少なくとも、何にも手を尽くしていないのに「なんで分かってくれないんだ」なんて思いたくはないですね。
文化さえできていれば、多少曖昧な指示でも動けるから人間の社会というのは面白いんです!